2025/06/29 19:49
1992年からの10年間、年の半分を白馬(長野県)とニュージーランドで過ごしていた。
仕事の関係での滞在でしたが、むしろ人生でいちばん「暮らす」という感覚に近かった時間だったかもしれません。
当時、借りていた家のオーナーは、犬、猫、馬、羊とともに生活している家族でした。誰かが誰かの所有物ではなく、みんながただそこにいて、当たり前のように寄り添っていた。自然の中に動物たちがいて人もその一部であることが、ごくごく自然に受け入れられていたのです。
犬の譲渡会やブリーダー会、郊外のファームにもよく足を運びました。初めて「自分の犬」として迎えたのも、この国で出会ったイングリッシュ・コッカー・スパニエルでした。彼のまなざしが、これまでの私のどこかをふっと緩ませてくれたことを、今でもはっきりと覚えています。
ニュージーランドでは犬は人のパートナーであり、対等な暮らしの仲間のような存在として受け止められていました。一緒に出かけることも静かに過ごすことも、声をかけることもどれも特別なことではなく、ごく日常の一部だったのです。
いいも悪いも全てひっくるめて普通なのです。
時代と共に日本も犬との関係は少しずつ変化してきたと思います。とくに都市生活の制約の中で私たちは静かに、丁寧に「犬と暮らす」という形を模索し続けている。可愛がることと、共に生きることの間にある揺らぎを抱えながら。
どちらの国でも、「犬と暮らすこと」は、ただの飼育を超えて暮らしのリズムや、人との関係性にまで静かに作用している。あの頃のニュージーランドの空気が、今でも私の深いところに染みついている気がします。
